過保護は悪い言葉のようになっているが、愛情の掛け方のミスなだけ。
ただし、
かなり大きな致命的なミスだけど。
こどもからしたら、
何でもやってもらえて、
至れり尽くせりで、
小さい頃は走ることさえも「危ない!」と止められ、
自分はもう親の前では何も動かなくてよくて、
その内考えることもしなくてよくなって。
それは、
家来はいるけど
愛をくれたと感じさせてくれる人は
家に居ないという視界なわけだから、
こどもの心はどこまでも枯渇していく。
「僕が欲しいのは、何でもやってくれる人じゃない。自分を信じて任せてくれる人だ。」
過保護の家の子の
「僕を見て!」
の態度は外家族ではない大人でも痛いほど感じられる。
発達障害と疑われる子の何割かはこの過保護こじらせパターンが多いと思う。
多動になったり空気読めない行動するのは、本人無意識ながらも
「あえて」や「わざと」だ。
大人が困ることをしながら心で叫ぶ。
本当の僕を見てよ
こんなことする私でも先生は見捨てないよね?
こどもの心の奥底の声が、痛い。
親はこどもに手をかけているけれど、実は子育てを自己を満たすツールにしているから、
親は親自身のことが好きなだけだ、ってことを、こどもは感じてしまうのではないだろうか。
それは親側もおそらく不本意。
親にはもちろん目の前のこどもに愛情はあるのに、
過保護というやり方は、こどもの心をじわじわと幸せになれない脳の大人へと育ててしまう。
とても悲しいな。
そうして大人になってもどこまでも愛が足りないと感じてしまい満たされないから、人から愛を欲したり奪ったり。
ひとり家に引きこもったり。
結局何をしても不足感の社会人に。
過保護という親の愛情のかけかたと
こどもの処世術としての親の顔色を見続ける生き方が
どうしても食い合わせが悪いかのごとくマイナスを生んでしまう。
人になにかをしてあげると幸せ物質が脳から出るから、過保護の親はそりゃ楽しい。
しかも我が子は立場的弱さゆえ大体の言うことは聞くし自分に似た顔だし。
最高の自己満足ツールになってしまう。
こども側も、過保護下なら自分が何もしなくて良いのだからどんどんどんどんツケあがってくる。
そして親子お互い目先の快楽を求めた結果
悪くすると20年後非納税者を育て上げてしまう。
こどもが自我を出して
親や心許す大人に
感情爆発させ、怒ってあたったり
理不尽な支離滅裂態度をぶつけることは
本来とても良いことなのだけれど、
過保護下の子は、実際それが辛辣になりやすい。
それは親自身が親を下に見てしまうように我が子にプログラミングしてしまったからという皮肉な現実によるのだけれど、こどもの最大の不幸は、本人が望んでそうなったわけではないこと。
勝手に生後すぐからインプットされた「親を家来みたいに思ってしまうプログラム」は、
こどもの心の中に大量の親に対するイラつきを生む。
その原因が自分ではコントロールできないほどに着実に日々刷り込まれた「生活」であることが、さらにこども自身をひたすらに苦しめ続ける。
こんなにしてあげてるのに、
なんで親の気持ちがわからないの(怒)?!!!
挙げ句の果てにそうこどもに言ってしまう過保護親。
「してくれなんて頼んでないわっ」
というのは、こどもからの本気の心からのツッコミである。過保護で育ち成長したことで苦しんでいるのは、こどもの方。それも、相当に。
過保護の反対は無関心ではないんだけどな。
こすられまくってきた安易な言葉を使えば、
信じて見守る、が、過保護の反対語に位置するか。
結局、自覚はないけど支配したい親。
心の奥底でそれを感じて、自分の中の親への腹立ちを処理できないこども。
本来親がこどもに与えたかった愛って、
こどもが心から信頼され続けて初めて感じてもらえるくらい、尊いものなんだろう。
そう、これは
親はなくとも子は育つ、というハナシ。